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ホームページをグランドオープンしました。

2019年7月18日

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法徳寺 薬師堂由緒(東近江市)

沿 革

奈良・平安時代に建てられた寺院には薬師如来を本尊とするところが多い。薬師堂の草創も平安時代と考えられている。

平安時代、旧玉緒・中野・市辺村の一部は得珍保といい、比叡山天台宗延暦寺の所領であり、現市辺町もそれに含まれており、寺も天台宗に属していた。

神仏習合思想によって鎌倉時代に当町の宮座と寺は関連を持つことになり、その伝統の大筋を今に伝えている。

南北朝時代、法徳寺の体裁が整ったことは今に残る本像、石造仏、石造塔などによってわかる。
蒲生郡誌は創立を貞和年間(一三四五~九)足利尊氏の時としているのはもっともながら、これは法徳寺をさすものであり、法徳寺の元をさす平安寺院がそれ以前この地にあった。

戦国時代末、織田信長は尾張から入京するときに妨害をした延暦寺や近江の天台寺院を多く焼いた。
そして浄土宗に好意を持ち、安土の浄厳院で日蓮宗と浄土宗との宗論をなさしめ、浄土宗が勝ったことにしたことがある。この時分から天台宗から浄土宗に転じた寺院は少なくない。
現在の薬師堂は昭和の初め、遠近信者の篤志によって建てられ、正面に「医王殿」の額を掲げる。

安 置 諸 尊

本尊は薬師如来。古くより行基菩薩作と伝えられて秘仏である。
そして現在では一月第二日曜日にのみ開扉される。
薬師如来は薬師瑠璃光如来とも、大医王仏とも称し、衆生の病厄と心の病気をも除き給う。
日本に仏教伝来以後早く現当二世の福徳を授かる仏として信仰が深かった。この薬師如来を中心として脇侍の日光、月光両菩薩や四天王像、十二神将を安置する。
十二神将は薬師如来のけん属で、昼夜十二時を、初めに子(ね)の刻をクビラ大将、以下交替に仏法と衆生を守るといい、また薬師如来の十二の大願にちなんで十二神将を祭るともいわれる。大願とは除病安楽、災厄離苦など十二である。クビラ大将は金比羅、金刀比羅とも書き、琴平の名のおこりである。

境内東側に石造浮彫の薬師三尊仏を安置する。中央は薬師如来、脇侍は日光、月光両菩薩で南北朝時代に属する。
刻銘に「当志者為祖父、父、兄、貞和二年一月」とあって、貞和二年(一三四五年)につくられたことがわかる。

次に庚申(こうしん)碑がある。
猿田彦神で、六十日目に一巡する十干十二支の庚(かのえ)申(さる)の日に、諸地方で庚申祭りとか庚申待ちなどと言って村内の者、縁者などが集まって祀ったものである。

次に熊野十二神の碑がある。最近まで祠であったが石碑とわかった。
これは牛王(ごおう)と称して熊野三山の神で、江戸時代初期「除疫病、願満足」の神礼を熊野などより出された。それでこの薬師堂でも今に牛王礼を出すのがならいである。

祭 事

一月第二日曜日の火祭り
朝、天台僧によって護摩供がある。
護摩とは元来、知恵の火で迷いの薪を焼くところから息災、増益などの祈願をなす修法となった。
夜、宮座の若連中による裸祭りが行われ、まゆ玉(まい玉)と言われる天井の餅花を奪い合い、その後祈願の踊りをする、身心一切の救いを願い、まい玉(米玉)などのことから五穀のみのりをも祈るものである。
七月土用の大般若経転読
大般若経は『大唐西域記』の著者として名高い玄奘三蔵が梵文を漢訳したもので六百巻からなる。
転読とは巻数の多い経巻の紙を繰るだけで読経したことにするのを言う。
土用の虫干しもかねての生活の知恵もある。